冤罪被害者からみた民主共和制で後世に残せること

冤罪被害者からみた民主共和制で後世に残せること

この世に絶対善と絶対悪が存在するなら、

なんと人々は楽に生きられるだろうね。

もし絶対善や絶対悪を前提に

作られた法があるとすれば、

それは民主共和制に対する冒涜と

言わねばならないだろうね。

 

暴君の出現に法的根拠を与えることに

他ならないからさ。

 

そういった法が民主共和制の名の下に

仮にあるとして、

さて得をするのは一体誰なんだろうね。

そして個人の尊厳を失うのは誰なのか

考えてみることだね。

 

つまりはそれが答えということさ。

 

勿論、その責務は民主共和制に対する

冒涜でしかない悪法を立法せしめた

国民の代表者を選出した民衆が取るべきなんだ。

 

民衆は甘んじて悪法による被害を

甘受すべきなんだ。

 

民衆の民衆による民衆のための政治を

実践するということは、

選挙で選んだ政治家の立法に

民衆が責任を取るということなんだよ。

 

民衆がその責務を放棄することこそが、

民主共和制の腐敗と呼ぶんだ。

これは政治家個人の腐敗の罪の比ではないんだ。

 

だけど、これだけはやらねばならないんだ。

悪法を立法せしめたのは、

我々選挙民たる主権者が選んだ政治家だ。

 

だが、我々の子どもや子孫が選んだ

政治家じゃあない。

 

選挙民たる現代人が悪法の被害を被って

自ら責任を取るのは民主共和制として

清潔なことなんだ。

 

だが、選挙権を持たない子どもたちや、

将来生まれてくる世代には、

何らの責任もないことなんだよ。

 

だから、悪法による被害を受けた民衆は、

自らの清潔さと責務を果たすためには、

自らの善悪を問うことは

全くとは言わないけれど、

あまり意味をなさないんだ。

 

むしろ、悪法を定めた政治家を選出した

自らの責任を自覚して、

そうした政治家を弾劾し

再び悪法を後世に残さないことによって、

民主共和政体の一員としての

自らの主権者としての過ちを正すことの方が

遥かに清潔だし、

遥かに多くの人々の幸福に寄与できるんだよ。

 

それを歴史的に繰り返すことで、

自らの政治体制と個人の主権と尊厳を自浄しつつ、

より個人の幸福を追求していくことが

出来る権利を守り、育てることにこそ、

民主共和制の最大の価値があると僕は思うんだよ。

 

僕は言われなき冤罪を受けたという自覚があるが、

僕個人の名誉や精神的苦痛は、

隅に置きたいと思っている。

 

僕の尊厳は僕が決まれば良いことであるし、

冤罪とはいっても、冒頭で述べたように、

絶対善や絶対悪はないのだから、

それを争っても、誰の幸福にもならないんだよ。

 

何より道義的に些かも恥ずべきところが

ないことだけで十分である。

 

民主共和制の一員として、為すべきことは、

悪法のツケを後世に対して

類を及ぼしてはならない、

この一点である。

 

実効統治としての世襲制度を否定した

民主国家の最大の美点は、

後世の幸福に現生の生きとし生けるものが

最大限寄与できることなのだと思うんだ。

 

未来の輝かしい希望達のために、

  1. 小さな主権と尊厳を持ち寄ってみませんか。